教育は教育者の娯楽のため

教育とは便利な言葉だ。教育という名目ならば、非生産的なことをさせることが許される。非効率でも、非合理でも、教育ならば許容される。

効率や合理性を求めたら、教育なんてできないのも事実だ。教育で効率や合理性を追求したら、予備校や専門学校のような産業になってしまう。合格実績といった数値化できる目的があって、目的を満たすことのできる技能を習得させるならば、効率化もできるだろう。それは教育というより訓練だ。

ここでいう教育というのは、目的も明確にできないようなもののことだ。学校教育や企業の研修も、なんのためにやっているのか分からないけど、ぼんやりと教育といって行われている。

目的が明確でないからといって、効果がみえないからといって、役に立たないからやるべきではないとは思わない。論理では説明できないものの一つが教育だ。やるべきだないとは思わない理由は説明できない。

しかし、曖昧なものゆえに、教育をする側の娯楽のために非生産的なことをさせている場面が多いように思えて、うんざりする。

無意味な試練を与えて、頑張っている様子を高みから見物している。介入する場合も、見てやる・教えてやると表現する。こういう教育の場合、発表会を最後にやる場合が多いが、苦労したこととか、感じたところとか述べさせる。でも、成果に関しては無責任だ。出来が良ければすげえじゃん・悪ければふーん可哀想で終わり。

俺はお前らの将来なんで興味ないんじゃ

とか正直に言っちゃう人の気持ちも分かるのだ。利害関係がなかったら、そうなって当然だと思うのだ。俺を楽しませるために一生懸命な様子を見せろと思っている人も多いだろう。

孫がかわいいのもそういうことでしょう?

一生懸命な様子が見たいなら、アイドルの公演を観に行けばいいのにと思う。歌やダンスパフォーマンスの完成度ではなくて、全力な姿自体が娯楽になると発見した人は天才だと思う。

非生産的なことを全力でさせることにも、具体的には言えないけれど、高い教育効果がありそうだという事実も否定できない。

ただ、プロデューサーやマネージャーにはアイドルと利害関係があるから、教育効果が成立している気がする。

教育という名目の娯楽の消費者と教育者が一致している場合には、ぼんやりとした教育効果はあるのかどうか疑問だ。