やりたいことをするのにどうして許可がいるのだろう

あなたは何がしたいのですか?

よく聞かれます。私はこの問いが理解できない。シェンロンなのでしょうか?

お前の望みを言え。

これなら分かります。俺を不老不死にしてくれとでも答えましょうか。でも、何がしたいの、と聞く人は私の願いを叶えてくれるわけではない。そんな能力もない。では、いったい彼らは何を尋ねているのでしょうか?

「私が」やりたいことをあなたが訊いてどうするのでしょう?だって、あなたにやってほしいことではなくて、私がやりたいことですよ? どうして「私が」やりたいことをするのに、誰かの許しがいるのでしょうか?

やらせてあげる。

という言葉も聞いたことがありますが、これもよく分からないのです。セックスの話ではありません。セックスは相手の許しが要ります。ここで言っているのは、私の行動の話です。やらせてあげるという人は、本当にただやらせてくれるだけで、やるのは全部私であり、別に協力する気はない。でも、恩着せがましく、成果は奪う。多分彼らは封建的な考えを持っていて、やらせてあげるだけで、何かをして与えているつもりなのだと思います。個人の自由を認めていないならば、やりたいことを尋ねる理由は分かります。

しかし、現代では個人の自由は保証されています。自由なんて与えて貰わなくても、元よりあるはずです。人が何かをするのに、政府からの免許が必要なこと以外は、許可なんて要らない。実際、個人的にやりたいことがあったら、行動力さえあれば何でもできる。やりたいことがあったら、訊かれなくてもやっているはずだし、やるべきだと思うのです。例えば、海外で働きたいという人がよくいますが、やればいいじゃんとしか思いません。パスポートもって行きたい国に行けよと。やっていないとしたら、そんなにやりたいと思っていない。あるいは、違うことをさせられていて時間が取れないだけです。やりたいことを訊くなら、帰らせてくれたらいいのに。

私はやりたいことはやっている。できないことは元よりやりたいなんて思わないし、林の中の象のように静かに生活していたいので、それで思いつくようなことは大抵やっている。やりたいことはやっているので、何がしたいと訊かれても困るのです。

やりたいことはやっているので、それに介入される方が煩わしい。やりたいことやっていたら楽しいけれども、その過程や結果にあーだこーだ言われたら楽しくなくなるものです。

手の届く範囲は自由にしているのに、何がしたいのかという問いに答えてしまったら、自由は与えられるものだというのを認めることになりませんか。それは精神の自由を手放すことで、私はそれが嫌なのでしょう。