具体的すぎてわからない

具体化という言葉を会社員をしていますとよく聞きます。特に企画の仕事では良く耳にします。再建策に具体性がないみたいな批判も経済ニュースではよく見ます。どうも、具体的なのは良きことで、抽象的なことは悪しきことみたいです。具体化していくのが仕事だ!といった話もしばしば聞きます。

それは間違ってはいないでしょう。抽象概念に金を払う人はいないですから、仕事でやっている以上何かしらの実体にせざる得ません。抽象概念を操っているように思える数学者でさえ、紙に書かれたものにしなければ仕事とは認められません。

仕事ならば、放っておいても勝手に話を具体化し始めます。すぐにタスクのブレークダウンを始めるし、気の早い人だったら何か「成果物」をつくり始めます。何か不安なのか、取り憑かれたように具体化が行われます。具体化とは難しくないし、それで仕事が進んでいるように見えるからでしょう。

しかし、急速に具体化が進むのは必ずしも正しいとは思わない。具体的な何かが出てきたら、枝葉末節のどうでもいい議論が始まりませんか。そもそもの目的が妥当なのかだとかを決着せずに、各論を議論して何の意味があるのでしょう。また、急に具体的な話が出てきても、何の話をしているのかさっぱりわからないのは、私だけでしょうか。

目的が不在なのは失敗プロジェクトの典型です。具体化――仕事を進めるのは、作業者が仕事をしているフリをするためにしているもので、それは仕事であって仕事でない。まして、仕事でない仕事を見て満足しているのは、マネジメントの仕事でない。

すぐに各論に飛びついて具体化を急ぐよりも、抽象的な状態で話を整理しながら、少しずつ抽象度を下げていった方がよいと思う。

イメージとしては、金属の焼きなましです。 *1 金属は急激に冷却すると、内部の組織に結晶ができて固くなるが、それぞれの結晶は勝手気ままに結晶化しているので、全体としてはひずみができます。焼きなましとは、ゆっくり金属を冷却して、ひずみがない材質をつくる方法です。各論に飛びついてすぐに具体化が始まって、全体としての整合性がない状態と焼入れは似てませんか。これを防ぎたかったら、具体化したいという欲望を抑えてゆっくり抽象度を下げていくべきでしょう。あるいは、具体化が急すぎると感じたら、手もどりをさせるか。手もどりは、焼もどしに似てますね。

抽象度を自在に移動して、適当な抽象度で議論をするのは、高度な知性で、習得したいとは私も思ってますが、なかなか困難です。それでもあえてコツをあげますと、抽象度が高いのとぼんやりふんわりしているのは違うので、抽象的であってもフォーマルに言語化をしてその抽象度でのあいまいさはないようにすることでしょう。例として適当かあやしいのものの、例えば数式モデルはいろんなものを取っ払って抽象化されていても、それ自体はよく定義されたあいまいさのないものです。具体化と同じぐらい明確化というのを企業ではよく耳にしますが、抽象も明確化はできて、そうしろと言っているのでしょう。

具体化は人間の思考のくせみたいなものであいまいなものでも自然と具体化は進みますが、抽象度を保ったまま言語化するのは頭に負担がかかる疲れる仕事です。それでも、ここを踏ん張って行うのが大事なのかなと思います。それができたら、抽象度を落としても、具体的な議論であってもどうでもいいということにはならないはずです。