タイムトラベルSFの分類

タイムトラベルはSFでは一般的な仕掛けである。 SF上のタイムトラベルにはいくつかの種類が存在する。 そこで、SF物語上のタイムトラベルを分類して整理したいと思う。

よくあるように、2つの軸に分けて、4象限のマトリクスで分類していく:軸はそれぞれ、

  • 作品上で歴史改変がある/ない
  • 同時代に同一人物がいる/いない

である。

歴史改変がある/ないとは、時系列もしくは因果関係の系列が一本なのか、それともタイムトラベルによってそれらが変化するかどうかということである。 設定で歴史改変が認めれていたとしても、物語の上で歴史改変がなされないものは、歴史改変がないに含める。ちなみに、『ターミネーター』はそもそもタイムトラベルものでないので分類しない。

同時代に同一人物がいる/いないとは、昨日に飛んだときに昨日の自分がそこにいるタイプなのか、いないタイプなのかという分類だ。 意識のみが時間を越えるのか、あるいは身体も含めて時間を越えるのかは問わない。 この分類は『傾物語』で言及されていた。

以下の表に具体的な作品を分類する。

歴史改変がある 歴史改変がない
同一人物が同時代にいる パラドックス
バック・トゥ・ザ・フューチャー
ルーパー
傾物語
ハインライン
夏への扉
涼宮ハルヒの憂鬱
ドラえもん(?)
同一人物が同時代にいない 時かけ
時をかける少女
シュタインズゲート
魔法少女まどか☆マギカ
バタフライ・エフェクト
あしたはきのう型
タイム・リープ あしたはきのう

便宜上4つの類型をそれぞれ

と名付けることにする。

パラドックス

このタイプが映画ではもっとも一般的だ。 タイムトラベルによる混乱が生じて、物語的に面白くなりやすい。

しかし、どうしても歴史改変による矛盾:タイムパラドックスが生じてしまう。 タイムトラベルなんて存在しないのだから仕方がない。 それを強引にどう解決するかもタイムトラベルものの面白さのひとつだ。

有名なタイムパラドックスに親殺しのパラドックスというのがある。 過去に戻って自分が生まれる以前に親を殺したら自分が存在できないというやつだ。 これを表現するにはどうすればよいのか?

映画でよくあるのが、歴史的な時系列を無視して、物語の中での時系列で因果関係を表現するというものだ。 例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、自分の存在が危うくなると、体が透けてくる。 また,『ルーパー』では,現在の自分の体に傷をつけると、未来の自分にその傷あとが現れる。 親を殺せば、存在自体が最初からなくなってしまうのだから、自分が過去に行くというイベントが成立しえないはずだ。 しかし、この表現では過去にいくというイベントは存在するけど、親殺しの影響は受けるとするのである。 過去での歴史改変の影響は,時間を越えて現れるのである。

ハインライン

このタイプは、時間軸が完全に一本でタイムトラベルの結果が、タイムトラベルする前に既に反映されている。 ハインラインの作品に代表されるタイプである。

登場人物が過去に行っていくら頑張っても、すでに未来は決定していて変えようがない既定事項である。 親を殺ろそうといくら努力しても成功しない。 このタイプは、パラドックスが生じないのが利点である。

しかし、結果が分かっているので終着点の意外さは損なわれてしまう。 また、結果が決まっているのに登場人物はなんで頑張っているのだろうと読者が思ってしまう問題点もある。 未来の情報を頼りにして、すでに明らかになっている結果に帰着するように工作する。 結果でなくてプロセス重視のタイプである。

あるいは、伏線を貼りやすいという利点もある。 物語の語り口がうまく行けば、読者を驚かせることができる。 ただ、残念ながら読者も慣れてしまっているので、ただ伏線を貼るだけじゃもはや驚きは少ないかもしれない。

ドラえもん』を(?)をつけてここに入れたのは、設定が一貫していないからだ。 ドラえもんが派遣された意図からして、パラドックス型にも思えるが、 タイムパトロールが頑張っているためか、結果としてハインライン型となっているのだろうか? ドラえもんがやっていくる未来は一定だ。

昔話題になった同人作品のドラえもん最終話は典型的なハインライン型である。

時かけ

これは『時をかける少女』に代表されるタイプである。 このタイプでは過去の自分に戻ることができる。 『時をかける少女』の圧倒的影響力のためか日本のアニメ作品はこの型が多いように思う。

このタイプも、意識が過去の自分に飛ぶだけならタイムパラドックスが生じない。 なぜなら、歴史が改変されて、時間軸が分岐することはあっても、パラドックス型のように時間軸がループすることはないからだ。 タイムパラドックスは、本来一方向であるはずの因果関係が、過去と未来がくっつくことで輪になってしまうために生じるのである。

しかし、自分の生前に飛んだらどうなるのだという問題は残る。 生前に飛んだら、タイムパラドックスが生じてしまう。 間宮千昭もしくは深町一夫はどうやって未来に帰るのだろうか? このタイプでは、物語の中では生前に飛ぶということができないという欠点がある。

ドラえもん』の人生やり直し機のエピソードなんかは、時かけ型に分類される。 『ドラえもん』は複数の型が含まれる興味深い作品だ。

あしたはきのう型

このタイプは一般には成立しない。過去の自分にタイムリープしただけで、必然的に歴史が改変されるからだ。

タイム・リープ あしたはきのう』は、同じ時間を繰り返さないという制約を付け加えることで、これを実現している。 この分類を始めた際にこのタイプは成立しないと思っていた。 しいていえば、前述の人生やりなおし機は、今の頭で過去に戻っても,結局同じことになるというオチなので、このタイプかと考えていた。 しかし、『タイムリープ』でこのタイプが成立することが証明されたので驚いた。

なお、細田版の『時をかける少女』でタイムリープという言葉が使われているので、このタイプはあしたはきのう型とした。

作中で他の3タイプそれぞれの作品(具体的には『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『夏への扉』、『時をかける少女』)について言及されていたので、 この作品はあえてこの新しいタイプを狙っていると思われる。 『タイム・リープ』はタイムトラベルものの中でも、特異な位置にある重要な作品であると言える。


2015-09-22

二重思考

非常に便利な言葉を覚えた.ジョージ・オーウェル『1984』に出てくる「二重思考」(doublethink)という言葉だ.

二重思考とは,ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き,その両方を受け入れる能力をいう.

もう少し具体的にいうと,

故意に嘘を吐きながら,しかしその嘘を心から信じていること,都合が悪くなったと事実は全て忘れること,その後で,それが再び必要となった場合には,必要な間だけ,忘却の中から呼び戻すこと,客観的現実の存在を否定すること,そしてその間ずっと,自分の否定した現実を考慮にいれておくこと

である.

オールドスピークでは,これはかなりあからさまに,「現実コントロール」と呼ばれている.

社会をうまいこと生きている人の思考ではないか.世の中は整合的にできているわけでないから,こういう思考は必要になってくる.

整合的でない社会にいて,二重思考をしているにも関わらず,論理とか根拠とかを求める思考が二重思考だ.

イメージとしてはこういう概念があったのだが,対応する言葉をこれまで持ち合わせていなかった.言葉によって概念に輪郭が与えられた.

二重思考が必要なこの社会というのは,やはりディストピアだった.

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

映画『ブレードランナー』の原作小説.映画とは主題が全く異なっている.映画は生への渇望が重要な要素だが,原作は人間がテーマだ.

人間とは何か?SFでの重要な主題の一つである.この小説での人間とアンドロイドとの違いは,他者に共感する能力の有無である.

この小説が書かれた当時は,ミラーニューロンは発見されていなかった.ミラーニューロンとは,霊長類の脳に存在する細胞で,共感に対して働きを持っていると考えられている.アンドロイドと人との違いはミラーニューロンの有無のみだとすれば,アンドロイドにミラーニューロンを装着できれば,それは人間となるのか.科学の進歩によって,新しい問題が浮上してくるところがSFの面白さだ.

ミラーニューロンは霊長類のみに存在する機能だ.人間の特徴といってよく,ディックは非常にいいところを付いている.

共感があるということは,自他の区別があるということだ.そうすると自我の問題が出てくる.共感できる他者が存在するからこそ自我が存在するが,共感によって彼我の境界が曖昧になったりするのだ.

「共感ボックス」というガジェットが興味深い.自分に他者が侵入し,一方で自分が他者の方に拡散していく.そういう自己がぼやけていくことが,人間にとってはなぜか救いになる.「共感ボックス」は『エヴァンゲリオン』での「人類補完計画」の簡易的なものだ.

動物を飼うということが共感を象徴的に表している.見栄のために動物を飼うということは他者の視点に共感するからだ.

しかし,動物には感情がなく,当然機械じかけの偽物にも感情はない.だが,人間は感情のない動物に共感できるのだ.共感は相手の感情を模倣する能力であるにもかかわらず,共感の対象は必ずしも感情を伴う必要はない.

マーサーという「共感ボックス」の先にいる信仰の対象が,偽物だということが明らかになっても,何も変わらなかった.人間は存在しない形而上のものにさえ共感できるのだ.脳の中に作り出した概念に,自ら共感することができる.自分で自分に共感するという内部での無限ループが人間には可能なのだ.

自己がいて,他者がいて,その境界が曖昧になりながら,自己の内部では再帰的に共感が繰り返すという複雑なシステムが人間の精神であり,それが人間の人間たりうる理由なのだろう.


FJK'S BOOK NOTE: 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を転載

『希望の国のエクソダス』

希望の国エクソダス
村上龍
文春文庫

希望の国のエクソダス (文春文庫)

「この国には何でもある.本当にいろいろなものがあります.だが,希望だけがない.」

閉塞感という言葉もいい加減聞き飽きた.失われた~年と言われてから何年たった?本書が刊行されて10年過ぎたが,状況は全く変わっていない.

希望がないとは,なりたいものがないということだ.

まぁ,子どもの場合ですが,とりあえず大人のやり方を真似るっていうか,参考にしていく以外に生き方を考えることはできないわけで,要するに,誰を真似すればいいのか,みたいなことがまったくわからなくなってしまっているわけです.

現状も悪いが,このまま行った先はもっと悪いことが明らかなのにも関わらず,解決する方法がない.この道の先には,こうはなりたくないと思える大人しかいない.

そんなんじゃやってけないぞというけれど,そもそも私はあなたたちみたいになりたくない.この場所があなたたちみたいな人間を育てるためにあるならば,ここは私のいるべき場所じゃない.どこでもいいから,ここでないどこかに脱出するしかないではないか?

閉塞感から日本中の中学生が学校を捨てて,彼らのネットワークは新たな国家のようなものを作るようになるまでに至る.彼らの反乱の動機はよく分かる.中学生の時にこれを読んだら,一人で革命,エクソダスを起こしていたかもしらない.

彼らのエクソダス共産主義革命を感じずにはいられない.そして,滅びていく理由も共産主義のようになるのだろう.

この快適で人工的な町に希望はあるのだろうか,と考えた.もし希望があるとしても,現実に向けてドライブしていく動力となるのは欲望だろう.彼らには欲望が希薄なことはポンちゃん自身が認めている.

為替市場の話は,よく研究されて書かれているように思ったが,ディティールを詰めた現実っぽい話は,余計に虚構性を感じた.

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FJK'S BOOK NOTE: 『希望の国のエクソダス』
より一部修正して転載