答えのない問題に挑む心構え

「答えのない問題」と呼ばれる種類の問題があります。この種類の問題に取り組む仕事は、過重労働のイメージが強い。その理由が問題の構造にあることに気づいたので記録しておく。

まず答えのない問題について説明します。答えのない問題とは、明確な解決策や結論が存在しなかったり、主観性の違いにより一意の答えが存在しない問題のことです。明らかな答えはなくて、人によって言うことが変わるような問題です。例えば広告のクリエイティブだったり、ビジネス上の戦略立案や意思決定に関する問題、投資判断の問題は、答えがない問題です。どんな広告を出したらいいかに唯一の正解はないし、企業の戦略も唯一の正解があるわけではありませんね。

『左利きのエレン』で描かれている広告会社のクリエイティブの人たちとか、コンサルタントの人たちの SNS とか眺めていると、彼らの仕事はハードワークの印象が強い。やりがいが強く夢中になれる仕事だから、ハードワークなのかとも思えるが、それだけではなさそうだ。取り組む問題の種類が、ハードワークを産んでいる気がする。

対比として答えのある問題を考えてみましょう。それは、予め答えが用意されている問題ではなくて、解けたときに解が正解かどうか分かる問題のことをいいます。例えば、PC の使い方が分からなかったから、Google で調べて解決したなどはよくあると思います。簡単な問題ですが、確かに明らかに問題を解決している。そして問題が解決されたので、仕事を終えて家に帰ることができる。もっと難しい例として、作っているプログラムが何かしらの理由で動かないのを挙げましょうか。問題を切り分けていって、原因を突き止めます。そして、解決すれば、家に帰れます。

こういう問題を解決するのは私は好きです。解けたときに快感は代え難いものがあります。もちろん全く手がかりが見つからずに、それで帰れないとなるとしんどいですが、ほとんどの場合解があることはわかってるので、気が楽です。また、専門でずっとやっていることであれば、出会う問題は過去に見たことのある問題の類型が多いので、解決の目処がたたずに途方にくれるなんてことも少ないです。専門家が一定の時間かけて解決できない問題なら、もうそれは解けない問題だと見切ってしまうこともできます。

数学の未解決問題のような解ける見込みがあるかも分からない問題に挑むのは精神的にすり減りますが、普通の仕事だとそんなものには取り組む機会もないので、置いておきましょう。デバッグが下手なジュニアがバグが解決せずに苦しそうにしているのは、その問題が解ける見込みがあると見えてないからで、そのしんどさは未解決問題に挑むのと似ているかもしれないが、それも今回は置いておきましょう。

一方で、答えのない問題は、そもそも問題が解決されたという状態がない。どっちがエラいかとかはないが、異なるルールで評価される問題なのは間違いないです。戦略立案を例にすれば、未来のことなんて分かず、何が正解かなんて知りようがありませんので、それが正しいかどうかって誰も言えないです。明確な答えがないので、どんなものでも答えになりえます。どんな愚策であっても戦略は戦略です。無数にある案を、多角的に検討して最良の案を選ぶのが求められていることです。

正解かどうかが明らかに分からないため、問題への解答の妥当性は解答にいたるプロセスで判断されます。正解かどうかはその時点では誰にも分からないのだから、正しさについては誰も責任をとれない。こんだけやったんだから結果が誤っていても仕方ないよねっていう努力の跡が要求される。それは積み上げられたファクトだったりするかもしれないし、長年鍛えた思考技術かもしれない。

論理的には考えるのでしょうけど、十分に考え抜いたのかどうかは論理ではない。そのため、答えのない問題は、精神論と親和性が高い。答えのない問題は、明確に解けたという状態がないから、どこまでもコネコネやろうと思えばできる。時間と体力が許す限りコネコネと練った案が求められる。高い手数料を取っているアクティブファンドの運用成績が、サルに運用させるよりも劣っていたとしても、誰もサルには運用を任せない。マッキンゼーが予測する未来が合っているなんてだれも思ってないですが、私が予測する未来なんて誰も聞いてくれない。優秀な人が苦しそうに死にそうにやっているのが求められる。

専門家が知識と経験をもとにサクサクっと問題を解決するやり方とは、だいぶ違う。問題が解けたから帰りますってわけにはいかない。答えのない問題は全く異なるルールで行われているゲームです。割に合わないのでようやらないと思いますが、取り組む必要が出てきたら、問題を解くのとはちょっと違うものだと理解して挑むのが実用上は重要ですかね。知らずにやると疲弊すると思います。