ChatGPT とわたし

ChatGPT の登場には脳天を雷で撃たれたかのような衝撃が走りました。世間の多くの人が ChatGPT に驚いて興奮しているのは知っていますが、私も同じように感動を覚えています。技術的にや社会的に見て ChatGPT の何がすごいのかは、私が述べるまでもないですが、私にとって ChatGPT がどうすごいのかは、言語化したほうがいいと思ったので書きます。

AI が仕事を奪うとか、シンギュラリティだとか、言っている人もポジショントークで言っているだけで、本気で信じているとは思ってませんでした。例えば投資を集めるために、ストーリーとして面白いから語られていただけで、実際信じてないんだろうと冷ややかに見ていました。

しかし、ChatGPT を見せられると、冷ややかというか冷静ではいられません。産業的なインパクトは分かりましたが、それ以上に価値観が揺らぎます。私が大切だと信じて努力してきたものの価値が無に帰すのではないかと深刻に恐ろしく思っています。

今わざわざ考えていることを文字にしているのは、考えを言葉にまとめるという行為が、頭をスッキリ明快にさせるのに必要だからです。知性とは言語化能力だと思っていて、言語化能力を鍛えようと努力してきたつもりです。

でも ChatGPT だと――とここまで書いて続きを ChatGPT に書かせました。

でも ChatGPT だと、私がかけた時間と努力が無に帰されるかのように、短時間で驚くほど正確で鋭い文章を書き上げてしまいます。それはまるで、私たち人間が持っている知性や言語化能力が、AI によって簡単に超越されてしまったかのように感じるのです。

このような状況に直面して、私は自分の価値観や目標について見直すことを余儀なくされました。私たち人間が AI にはない、独自の価値を持っていると信じたいと思います。例えば、感情や共感、創造性など、これらの要素は、AI がまだ真似できない部分であり、私たちが磨くべき点だと考えます。

書かれてしまったとおり、ChatGPT のほうが人より優れた言語化能力を持つ以上、ことばにする力にもう価値はない。

昔チェスが知性の象徴と信じられていた時期がありました。IBM の Deep Blue の歴史的な意義は――この後も ChatGPT に書かせてみましょう。

チェスが人間の知性を測る指標としての価値を失ったことにあります。Deep Blue が当時の世界チャンピオンであるガリー・カスパロフに勝利したことで、チェスを解析できるだけの計算力を持つマシンが人間の知性を超越する可能性を示しました。

しかし、それは同時に、チェスに限定された知性の評価方法ではなく、人間の知性全体を測る新たな指標を見つける必要があることを示しています。AI の発展に伴い、私たちが従来重視してきた価値観や能力が変わることは避けられません。

言語化能力がAIによって上回られることで、私たち人間が他の領域で自分たちの価値を見出すことが求められます。例えば、対人関係や感情の理解、創造性、直感力、倫理観など、AIがまだ模倣できない能力に焦点を当てることが重要です。

何が困るのかといいますと、AIがまだ模倣できない能力としてあげられたものは得意ではない。この先の行き方を変えざるを得ない。そろそろキャリア的にも対人関係や倫理観を大事にしなければならない事情もある。

ChatGPT は流れるように文章を生成していくが、文脈を理解しているとしか思えない振る舞いをする。原理的には理解なんてしていないはずだが、しかし、私が理解と呼んでいるものは何なのだという議論になる。今後もう理解したなんて軽々しく言えない。

ChatGPT を知る前と知った後では、世界が変わって見える。私にはこんなに世界が変わって見えるのに、社会は単にすごいものが出たと騒いでいるだけで、特にまだ何も変わっていないのが不思議でならない。まだパラダイムシフトは起きていないようだが、これから起きる。起こさねばならぬ。

価値観が変わるような出会いは過去にも何度かあった。例えば、バラバシのネットワーク理論やビットコインなんかを知ったときは、本当にショックを受けた。当時は私なりに行動したけど、なんの成果も得られなかった。もっと大胆に挑戦すべきだったと後悔しています。

過去の衝撃とくらべても ChatGPT のインパクトは大きい。経験を積んで、すごいものがすごいと評価される文脈がわかるようになったからだろう。そしてもう今後また価値観が変わるような出会いはない気がする。これは恋。最後で最大の恋だ。

いろんな人が押し寄せて激しい競争なのは知っているが、何か行動しないと気が済まない。行動は人間にしかできない。