論理的思考とはパターン認識である

語っていることの辻褄があっているとか、矛盾がないとか、整合性が取れている状態を論理的と言います。意思決定や問題を解きたいときなど、正しさに重きが置かれる場面では、論理的であることを求められます。論理的整合性が取れていないものは誤っている可能性が高く、根拠が弱かったり話の辻褄があっていない意見は、正しいことを求めるところではだいたい無視されるでしょう。ただし偉い人が言ったら別ですけど。

議論が論理的か非論理的かは、話を聞く人が判断しますが、われわれはどうやって話の筋が通っているかどうかを判断しているんでしょうか。現実にはもっと大雑把にやっていますけど、理想的な場面を仮定して、数学の証明のように推論規則を守っているかをひとつずつ確認しているとしましょう。ひとつの文が論理的に妥当化どうかって、わたしたちはどうやって判断していますかね。見たら分かるとしか答えようがないと思うんですよね。

例えば「Aであり、かつ A でない」がダメなのは、排中律によるものだとか言えなくはないものの、単にこの形に名前をつけて言い換えただけなので、特に何も説明していません。また、ダメな議論が「Aであり、かつ A でない」のパターンになっているのがなぜ分かるかというと見たら分かるとしか言えませんよね。

現実のもっと大雑把な議論では、これはどの推論規則の形式だとかも考えたりしないと思いますし、推論規則を1ステップずつ確認したりもしません。しかし、話の筋が通っているかどうかは見たらわかるし、私たちはそれで問題なく判断できているように思います。

この「見たらわかる」というのは、パターン認識能力ともいいます。論理的思考とは、その名前とは異なって、あの ReCaptcha の写真を選ぶのと同じように、単に辻褄があったのとそうでないのを正確に区別する単なるパターン認識の一つなのではないかなと思います。

将棋の手を深く読むように論理推論を深く進めることができる能力は、論理的思考能力の一部であっても、あまり重要でなさそうです。なぜなら、現実で議論していたら、深く議論を推し進める必要もないからです。数学の式変形のような演算であれば、何ステップ進めても確からしさは変わりませんが、現実の議論は論理ステップを進めていくごとに確からしさは失われます。風が吹けば桶屋が儲かるなんて推論は正しくありません。確からしさを保つには 1ステップか2ステップが限度でしょう。また、確からしさを保ったとしても、推論が長いと他の人がついていけません。納得感を出すのが論理の目的であって、ついていけない議論は納得感がなく、目的を達成できないのです。

ReCaptcha に素早く回答するように、辻褄のあっているものだけを選びとるパターン認識の能力が、論理的思考能力の正体なのではないかなと思います。

論理的思考が弱い状態では、車の写真が選べないように、整合性のある議論とそうでない議論が区別できません。正しい答案と比べて誤っている答案の方が無数にあるので、パターン認識能力が弱くて、論理的に正しいものとそうでないのが区別がつかないと、確実に誤ったことを言っているように見えるでしょう。

逆に論理思考能力が高いときは、考えなくても見たら分かる。外から見ると一瞬なので、すごく賢そうに見えるかもしれません。これは信号の色を見るようなものなので、これを賢いと呼ぶのかは分かりません。知性とはそういうものと考えるのが最近の主流なんですか?よくしりませんけど。

論理というのは、前提が同じだったら誰もが同じ結論を得ることができる、だから、論理で議論すれば意見が一致するんだ――みたいな話を聞くんですけど、パターン認識の問題だとこの話も変わってくるのかなと思います。私がパターン認識が必ず正しいという自信はないのですが、同じものを見ても違うように解釈する人はいるわけじゃないですか。人と話していて、話が通じないなと感じる原因はここにあるのではないかな。

数学だったら推論が正しいか間違っているかは、はっきり決まるのですが、困ったことに現実の議論はそこまで厳密さを求められていなくて、だいたい正しいで許されます。正しいと誤りの間にグレーゾーンがあって、どこまで白なら白と見なしていいかは、文脈によります。これが判断できるようになるには、経験が必要です。

人を見ると、年齢を重ねると明らかに論理的思考能力と人が呼ぶものが上がるように思います。これは、グレーのところも含めたパターン認識の精度が上がっているからではないかと思っています。白いものは瞬時に白と見抜け、グレーのところもどこまでが許されるか判断がつくようになるのでしょう。これは、一朝一夕では真似出来ない芸当ですね。